記号なのだと

電車に乗るのが大好きだ。
いつからか分からないが、かなり前から好きだったと思う。
中学から高校にかけて電車通学で、小学校のときも隣の市の塾に一駅だけ電車で通っていた。
冬のテストの朝、前日に寝てしまった分を早く行って挽回しようと朝6時半発の電車に乗り込むと、決まって進行方向に朝日が見えた。何度見てもきれいだと、感動した記憶がある。
元来乗り物に弱い私は、車に乗っても飛行機に乗っても気持ちが悪くなる性質だった。いまはそうでもないが、バスや自動車は本を読みながら乗られない。だから電車は唯一、中で読書ができる乗り物だ。
電車にはいろんな人が乗ってくる。先日、座席に座って本を読んでいたら、どこかへ出かける途中らしい一家が、私の席を囲む形で乗り込んできた。それぞれの位置に落ち着くと、まず私の両脇に座ったおばあちゃんと孫らしき二人が、私を挟んでしゃべり始めた。席をかわりましょうか、と言おうかと思ったが、あまりにも二人が気にせずずっとしゃべっているので、口を挟むことができずそのままじっとしていた。二人の会話は(たぶん、なまりのある)英語だった。スパイダーマンやジョーズの話をしていた。孫は小学生くらいの男の子だ。擬音語を交えながらひとしきり楽しそうに会話をかわしたあと、おばあちゃんは、今度は前に立っていた息子らしき人とやおら日本語で話し始めた。息子は完璧な日本人らしい口調でどんどん話す。おばあちゃんも特に困ることなくすいすいと言葉をつむいでいく。しばらくすると今度はまた、おばあちゃんと孫の会話が始まる。英語だ。おばあちゃんはふたつの言葉を使いながら、家族と会話している。
その一家にはほかに女の子が二人いたが、このふたりは別の席に座っていたり黙っていたり、ひとことも声を聞くことはなかった。やがて一家が降りる駅に到着し、孫とおばあちゃんは会話を続行しながら改札のほうへと歩いていった。
言葉は記号なのだ、と思った。
あらゆる種類の言語が世界中に存在するけれど、それらは考えを伝えるための記号に過ぎない。頭の中に心の泉のようなものがあって、それは最初から何かの言葉の形をとったりしてはいないのだ。どこかもやもやとした部分に、直に触れられたような感じがした。それは一瞬の感覚で、もうその感動は過ぎ去ってしまったけれど、今でも思い出すと少し、震える気持ちがする。
電車での出来事。